何から書き始めるか、頭の中はまとまっていない。でも、こうすることで少しはモヤモヤが晴れるかと思っている。誰かが読むことも、見ることもないだろう。
まずは娘のこと。
長女は現在小2、早生まれなのもあってか同級生の中で比較的小柄だが、元来の面倒見の良さ、おせっかいともいえるが、友達もできて、学校にも慣れたようだ。勉強には真面目に取り組んでいるし、向上心があると思う。漢検を目標に、というか合格したらゲームソフトを買う約束をしたので、それに向けて頑張っている感じだ。
次に息子のこと。
長男は現在5歳、自閉スペクトラム症と診断をうけ、知的障害を持っている。てんかんの兆候があり、年内に脳波の検査を予定している。知的障害者にはてんかん持ちが多いらしく、てんかんの診断が下されてもおかしくはないだろう。一方で体は丈夫、姉と比べて夜間の救急病院に駆け込んだことは数えるほどしかない。コロナの3年間もあり、人と接触が少なかったこともあってか、年間を通して風邪すらひかなかったこともあるくらいだ。
そして妻のこと。
ジャニヲタとして、人生を謳歌している。インスタ映えする写真を撮るために、人生を懸けているともいえる。いっそカメラマンにでもなったほうがいい。フードコーディネーターや食品に関する知識にも貪欲だ。妻が幸せそうに人生を過ごしていることが、今の自分には何よりのことだと思う。そもそも生涯の伴侶だ、パートナーではあるが、一緒に幸せになろうと誓い合った仲である以上、幸せを感じて生活を送ってもらわないと困る。そのために仕事を頑張って稼いでいるのだから。
自分のこと。
もうすぐ40歳、今の会社で定年までとは考えていない。一番現実的なトラックドライバーとして、エネルギー業界に転職、インフラに携わる仕事に従事し、人生における仕事というものにやりがいと人生の価値を見出したいと考えている。趣味と呼べるものはないが、好きなものは多いと思う。食べることや酒を飲むこと、ドライブや旅行、家族との日常の買い物や子供たちと遊園地や動物園、水族館に行くことは最高の楽しみだ。毎年の誕生日、年間行事やイベントを大切に、大げさに過ごすことで、家族の思い出をたくさん増やすことが今は一番興味があるかもしれない。
実母のこと。
実父は2年前に他界、とはいえ20年前にすでに離婚しているので、母はケアマネージャーとして自立した生活を送っている。手に職をもち、天職を見つけたと、忙しく働き、休みの日には趣味のドライブを通して日本中を走り回っている。仕事柄、多くの人の死に直面する機会が多いことも影響しているのか、自分の人生に生きること、人生の終わり方についても、真剣に考えている。自分の性格は母からの影響が強いと思うが、性格の明るさは、若いころの暗い経験を経ているからかもしれない。
実姉のこと。
美容師。自分としては、おそらくこの世でもっとも信頼できる人だ。それくらい人生を誠実に生きている。不器用な生き方と言われればそれまでだが、美容師になることを目指して高校生から働き、働きながら国家資格を獲得、結婚・出産を経ても仕事を続け、パートナーの病気を支え、家族を支え、住むところも生まれた地域で過ごし、ささやかな出来事に大きな幸せを感じながら生きている。尊敬する人だ。姉家族と2泊3日でUSJに行くことが、今の自分の夢だ。合わせて8人の大所帯で、自分が運転するバンに乗って旅行したい。
実父のこと。
他界した親父は1954(昭和29)年5月22日生まれ、北海道網走出身、高校中退後、東京の新宿四谷にあった高橋経師店に丁稚奉公として住み込みで働く、横浜に引っ越し、母と出会い結婚、姉が生まれる。内装屋として独立、時代はバブル景気前夜、登り龍のごとく躍進、年商3千万の中小内装企業の社長として、日本橋三越の改装工事にも携わり、多くの大手企業とも肩を並べた。そしてバブル崩壊、平成9年会社倒産、一家は夜逃げ、夫婦は離婚、家族は離散した。その後1年ほどたって合流、家族としてバラバラに暮らしながらも、関係性は残った。入学祝いや卒業祝い、就職祝いもしてもらった。結婚式にも出席してもらったし、孫の顔も見せられた。酒とたばこが好きで、何度倒れてもやめることができなかった。もっと生きたかったかもしれない、もっと仕事したかったかもしれない。晩年は脳梗塞の影響で、思うように話すことも考えることもできなくなっていた。認知症ではなかったが、忘れっぽく、怒りっぽくなっていた。何度目かの採用が決まった新しい職場の初日で倒れ、そのまま意識が戻ることなく、延命治療を拒否した。
葬式も終わり、アパートを引き払い、保険や滞納していた借金も完済し、骨も親父が自分の母親のために建てた北海道の墓に入れてもらった。長男として、やることはできた。親孝行は十分できたと思っている。
親父が亡くなってからしばらくしたときに見た夢が今でも忘れられない。
親父と狭い乗り合いバスに乗っていた。運転手のとなりに親父は座っていた。バスが停まると、後部座席から立ち上がって、助手席に座る親父の右肩に手を置いて「じゃあな親父」と声をかけた。ちょうど下車するバス停だった。親父は顔を半分だけ振り向いて「がんばれ」と返してくれた。その声も覚えている。生前、脳梗塞で倒れて、少し滑舌が悪くなった親父の話し方だった。顔を半分だけしか動かせなかったのは、体に麻痺のような後遺症が残り、思うように動かせなくなっていたからだ。「おう」とだけ答えて、バスから降りた。バスは親父だけ乗せて走り去った。そのバスを見送ることもせず、反対方向に向かって歩き出したところで目が覚めた。
起きてから気付いた。親父はこれで成仏したんだな、がんばれって言ってくれたことが嬉しかった。頑張らなきゃいけないとおもった。かつての親父がそうだったように。自分も今、40歳を前にして、家族のために歯を食いしばって働かないといけない、お金を稼がないといけない、家族の幸せのために、生きなければいけない、そんな風な気持ちになった。
日本にこれから起こるであろう歴史的な事件を経験しても、それでもなんとか生きていかなければいけない。死ぬことはできない。子供たちを守らなくてはいけない、妻の笑顔を守らなくてはいけない、将来に希望が持てる生活を送らなくてはいけない。子供に夢をあきらめさせない生活を送らなければいけない。そのためなら、そのためなら、生きることを諦めてはいけない。人生を諦めてはいけない、先を見据え、未来を予測し、行動を起こし、打てる手はすべて打ち、それでもなお保険はかけておき、最悪の事態は常に想定しておかなければならない。
利己的と思われようが、家族を守るために、やるべきことをやらなくてはいけない。ふわふわした気持ちが、書くことで決意表明のようになっていく。整理しながら書くことになっている。もやもやした気持ちは、確固たる決意として生まれ変わった。顔を上げよう、前を見よう。まだまだこれからだ。
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